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ふと思いついたこと
by namuko06
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現場主義の崩壊
<履修不足>350回の補習も 不安渦巻く生徒たち

伊吹文科相の言い分
「卒業証書を出すまでの間に学習指導要領に決めた通りの授業は受けていただく。特別な配慮は難しい。みんなが決めたルールを守るところから社会の秩序は成り立っている」と述べた。さらに責任の所在について「所管をしている教育委員会そのものに責任があるんじゃないか」と言及した。


ある高校の事情、校長の言い分
盛岡市の私立盛岡中央高では、普通科特進コースの3年生51人の履修不足は10単位に上る。履修が必要なのは世界史B、家庭基礎、情報A、芸術の4科目。50分の補習を計350回受けなければ卒業できない。
 対応策について、3年生は補習やリポートなどで補充する予定だが、生徒の負担を軽減する措置を検討中という。富澤正一校長は「学習指導要領にのっとらなかったことは悪かったと思っている。しかし生徒のためを思って、進路目標を達成させるためにやったことだ」と強調する。未履修科目の授業時間には受験に必要な科目の授業をしていた。少なくとも97年ごろから行っていたという。


生徒の言い分
・「仕方ないと思う。はっきり言って私たちの責任でもないです」

・「補習は受験が落ち着いてからやるという話もあるけど、国公立の後期は長引く。大学に合格した人と落ちた人がまた集まって一緒に補習するのは嫌だ」

・「どこの学校でもやってたわけだし、大学入試制度が変わらない限りどうしようもない」

・「友達の中には負担に感じて泣いている子もいる。センター試験が終わった後に補習してほしい」


これまで、学校の中のことは「教育の現場」として聖域化していた。学校で起きる様々の事柄は「現場」の意見を尊重することが、教育を受ける生徒にとって大切なことだと誰もが信じていた。この「現場」を主張する学校が、「生徒のためを思って」教育指導要領を無視したのだ。結果として、不利益は生徒達に降りかかってきた。これは、学校の言う「現場」を重視した教育方針である「現場主義」が、実は様々の問題を覆い隠すための陽炎ではないかと邪推してしまう。それを裏付けるように校長の言葉は続く、「進路目標を達成させるためにやったことだ」と。教育の最終目的は進路目標の達成ではないことは明白だ。教育の結果、進路目標が設定でき、実現するために生徒達は努力するのだ。目標と目的を取り違えるような教育者が教育に携わっている限り、「現場主義」とはあきらかに目標達成の「成果主義」に他ならない。何と、荒廃した姿ではないか。ゲーテは『ファウスト』でこう書いている。
  『おれを絶望的なほど不安にしうるのは、抑制できない諸要素の無目的な力だ』
「現場主義」が「成果主義」に置き換わった瞬間に、様々な目標が無目的に設定されていく。それは受験対策という環境に適用とするごく自然な、本能的な認識過程である。これこそ無目的の本質である。人間としてのインテリジェンスを失い、計画性を失い、そして人間としての向上心を失った結果である。これこそ、K.ローレンツが『文明化した人間の八つの大罪』『人間性の解体』などで述べている、人間を破滅の危機にさらしているという技術主義的システム化における人間の姿ではないか。

 さて、現場の教育者が教育に燃えていた頃の「現場主義」から「成果主義」に勘違いしたのはなぜであろうか。様々な要素がある、文科省、教育委員会の方針や評価制度の変更、社会的な学歴偏重主義、ゆとり教育による生徒達の学力低下、教師への社会的信頼低下などなど。どれもこれも非人間的な要素だ。こういった要素が重なって、非可逆的な構造を生んでしまったと、私には思える。

「教育再生」というのが今度の安部総理の公約のひとつであるが、非人間的な教育から、人間的な教育を取り戻すことが、教育者にとっても、生徒達にとっても、教育を通して人間性を獲得し生き返ること、これが目的である。「教育再生」には目標はないのだ。この目的は数々のマイルストーンを通りながら、全員で道を開拓し、進んでいかなければならない。それは下り坂かも知れないし、上り坂かも知れない。しかし、目的を掲げて進むことこそ、一方通行で進行する技術主義的システムの非人間性の浸透を食い止める道である。心してかからなければならない。
by namuko06 | 2006-10-28 21:06 | ニュース
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