ふと思いついたこと
by namuko06
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ゼニゴケの雄器托
d0053733_20503062.jpg 道沿いの畑をのぞいてみると、ゼニゴケが群生していた。雌株には雌器托が、林立していてきれいだなぁ、と雄株を探していたが、なかなかない。ここは雌株だらけなのか?と思っていると、やっと見つけた雄株。しかも雄器托がたくさんあるではないか! これに雨が降ると精子細胞がじわ〜っとでてきて白濁するのだ。
 ゼニゴケはほかの植物が育たなくなるそうだが、この畑の縁はゼニゴケだらけだ。今後どうなっていくのか、楽しみだ(畑の持ち主はには迷惑な話かな?)
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by namuko06 | 2005-06-29 20:56 | 趣味(苔など)
いま、会いにゆきます
 DVD鑑賞。これまで僕は、人にはそれぞれ愛の形があって、自分自身、お互いがそれを感じながら過ごせればよいと思っていた。しかし、この物語に出てくる一つの家族は、無くなった愛すべき人が再び現れて、その愛の形を確認しながら形成することで、完全な愛をみつけることができた。正直言ってよくもまぁ、このような物語を思いつくものだと思ったが、原作はまだ読んでいないので、映画だけの印象を語ることにしよう。
 まず、感じたのが、この夫婦は、僕ら夫婦によく似ていると思った。出会いとか、姿形とかではなく、「そばにいるだけでいごごちがよい」とお互いに感じられる夫婦という点で、似ていると感じた。まぁ、妻がそう思っているかどうかはわからないが、僕にはそう感じていると理解しているつもりだ。高校生の彼が彼女の卒業ノートに「横にいるだけでいごごちがよかった」と書いたときには、「そうそう」と頷いてしまった。
 一概にはいえないだろうが、女性は、時に包み込むような大きな愛情を示す時がある。映画の中では、自分にはふさわしくないと主人公の彼女を拒否した彼に、ひまわり畑で結婚の決意を示すシーンでは、心が温かくなった。僕がとても落ち込んでいたときに、妻が「だいじょうぶだよ、ゆっくりいこうよ」と言ってくれたことを思い出して、ジーンとなってしまった。
 あまりにも周囲に(原作を)読め読め、とせっつかれたので、敢えて原作は読まないでいたが、映画の世界観と比較したく読みたくなった。
 さて、役者の竹内結子と中村獅童だが、キャスティングはパーフェクトだ。誠実さ、清潔感、清涼感、そして人間的な深みというか育ってきた歴史のようなものを感じることができて、映画の中の物語が大きく広がっていた。森の中の廃工場という非現実的なシーンと雨の相乗効果かもしれないが。
 ゆっくりとお互いを確かめ合いながら愛を育む家族というのも、良いかもしれないな。
 もう一度観たくなった。
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by namuko06 | 2005-06-26 19:58 | 映画/ドラマ
スズメの子
d0053733_2201071.jpg今朝、玄関先でなにやら小鳥が騒いでいるので、見てみると、なんとスズメの子がよちよち飛び跳ねている。そのそばには親鳥がえさを持ってきていた。巣立ちがうまくできなかったのか、よりによってうちの玄関先に落ちてくるとは。今日はとても暑くて、このままでは暑さに干上がってしまうと思い、木の箱(なぜか小鳥の巣箱がうちにあった)を持ってきて、おがくずを入れて、スズメの子を入れてあげた。体力が落ちているのか、一息つくとうとうとしはじめた。玄関先において、そのまま様子をみていると、親鳥がしきりにえさを運び、飛び立ち方を教えている。しかし子供はうまく飛べずに、親のあとを必死で追いかけていた。
 なんどか、日向のコンクリートの上でばてていたスズメの子を木の箱にもどしたりしていたが、そのうち、親鳥といっしょに飛び跳ねて、近所のアパート裏へ引っ越ししてしまった。カラスや野良猫にやられないように、祈るばかりだ。
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by namuko06 | 2005-06-25 22:09 | 日記
コケ類入門講座
d0053733_2347814.jpg 国立科学博物館と日本蘚苔類学会共催の「コケ類観察の基本テクニック」という講座に参加した。20名ほどの参加者だったが、僕のような素人には内容が濃く、楽しい一日だった。
 まず、コケ類の特徴について解説していただき、午前中は蘚類、午後は苔類を顕微鏡をみながら観察を行った。蘚類は、葉の形状に特徴があり、苔の葉を一枚ずつとりはずして、精密顕微鏡で見た。葉をカミソリで薄い断面切片を作るのは、今ひとつうまく作れなかったが、となりに座っていた中学生は上手に作っていたので、見せてもらったりした。一方苔類も葉が蘚類とは全く異なり、油体というものをもっていて、においがいろいろあることなど、おもしろい発見があった。ゼニゴケの雄株の雄器托なるもののうえに水を垂らすと、じわりと白く濁ってくる。これを精密顕微鏡で見ると、精子?が殻の中に入っている(多数の固まりになっている)のが見え、それが次第に、殻を突き破って、おなじみのべん毛でチロチロと動き回る精子の姿となる。かなり面白い。ゼニゴケといえばガーデニングの大敵で嫌われているが、止まることを知らないような活発な動きをする精子を見ると、ゼニゴケも一つの生命なんだ、とあらためて感じた。
 コケ類は人間の役に立っているのか?という疑問も多数あるが、地表を覆うことで、地面の温度を上げないといった地球温暖化防止にも寄与できるのではないか、とも思える。実際ビルの屋上で苔を植えているところもあるそうだ。
 この講座を終えて、いろいろ生体同定のポイントがつかめず悩んでいたことが解消した。小さな植物なので、やはり顕微鏡は必須のようだ。さらに、観察した資料はお土産にいただいたので、標本としてじっくり自宅で観察できるのも、参加してよかったことだ。
 写真はコウヤノマンネングサである。美しい姿をしたコケ(蘚類)だ。
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by namuko06 | 2005-06-19 00:08 | 趣味(苔など)
恥を知れ
 妻が子供をつれて国立科学博物館へ行った。恐竜博の特別展示は相変わらず人気が高く、平日というのに昼間から混雑していたらしい。ところが、それだけならば問題なかったのだが、観覧マナーがまったくない、注意しても文句を言う、といった輩が多かったので、妻はかなり頭にきていた。子供たちも、満足にみることができなかったようだが、マナーの悪さには閉口していた。
 さて、その輩とは、某女子大学の附属中学で多摩にある学校だ。妻も高校からではあるがその大学を出ており、問題の生徒たちは彼女の後輩にあたる。そのせいもあって、後輩たちの無礼な振る舞いに怒っているのだろう。
 生徒たちは、なんらかの用紙をもって4~5人のグループで恐竜博展示館内を回り、用紙に書かれていた問題のようなものに対して、展示物からヒントをもらって、回答を記入していたらしい。おそらく社会見学をしっかり見させようとする学校側の主旨だろう。一般的に、展示場では薄い紙にメモをとるような場所はない。したがって必然的に展示物を覆うガラスの上や、壁をつかって書くことになる。それでは他の観覧者が展示物を見ることができない。さらに一人が書き終わるまでグループの連中はその周りをはなれることはなく、数分もの間、展示物を占領することになっていたようだ。そして、そのさらに外周には展示物を見ようとさらに人垣ができてしまう、といった光景がいたるところであったそうだ。
 さて、連れてきている教師はというと、最前列で説明員の話に聞き入っていたり、生徒たちの様子をみて、流れをコントロールすするわけでもなく、自由に展示物を観覧していたらしい。妻は、そこで、直接後輩たちに「みんなのじゃまになっているから、書くときはどきなさい」といったそうだ。そうしたら、グループ全員に嫌な顔をされて、返事もなくその場から退いた。そして小さな声で「うるせぇよ、バ...」と言ったそうである。妻は思わず、その言った生徒の顔をみたのだが、目もあわせず、ふてくされていた態度だったという。妻は、怒り心頭し、会場の係員に、「観覧マナーの悪い人にはきちんと注意してください」と、くってかかったそうだ。
 恐竜博での出来事はこれぐらいだが、妻と子供たちにはさらに事件が待っていた。
 昼食を食べるときに、お弁当を売っているプレハブの休憩所へ行くと、大半のテーブルが遠足できていた保育園の子供たちの荷物で場所取りがしてあったそうだ。そのため、弁当をたべるところがなく、弁当販売の人にどうしたらよいか聞くと、「ずーっと場所取りしてあるので、荷物をよけて食べていいですよ」と言われたようだ。どうも弁当販売員は休憩所の管理を任されているわけではなく、場所取り行為に対して強く言えないらしい。当の保育園の子供たちはというと、妻達が弁当をなんとか食べ終えて、展示場へもどると、元気に遊んでいたらしい。
 これらの出来事を聞いて、最初の中学生の問題は、学校側に指導責任があるにもかかわらずそれを放置していること、生徒がマナー違反を犯していることを認識できない、といった教師に問題がある。だいたい指導も注意もできない人間を「師」呼ばわりすること自体問題かもしれないし、「先生」と敬称をつけることも憚られる。
 後半の場所取りの問題は、パブリックスペースを占有するという行為がモラル・ハザードであることに気づかない、保育士の倫理性が疑われる。ある程度の高等教育を受け、子供達を育て上げるために保育士という仕事があるにもかかわらず、このようなモラル・ハザードを起こすような保育士をかかえた保育園・幼稚園は、必ずや崩壊するだろう。弁当を食べる場所をキープしたいのならば、科学博物館と事前に連絡、調整すべきであろう。それすらできないというならば、一般社会常識さえない資格だけの保育士だ。
 大○女子大学の創始者の言葉は強烈だ。「恥を知れ」。自分の言動だけでなく心の動きにまで客観視して、自身の定規と照らし合わせて、それが恥ずかしいことかどうかを常に判断していく。恥だと思えば、修正していく。そういった前向きな人間を作り出すために、創始者は大学を作り理想の教育を展開してきた。今回の中学生は、中学生というまだ育成途中の人間だからこそ、指導者は、恥を知ることを教え、生徒は学び、倫理性を備えた人間になっていかなければならない。同大学は保育士を育てるコースもあるわけで、僕は妻の話を聞いて、問題の生徒が将来モラルのない保育士になるのではないかという、不安を感じた。
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by namuko06 | 2005-06-17 13:00 | 意見
広い意味でのいじめはあったかもしれない
Excite News: 校長「背景にいじめ」 爆発事件で山口・光高
 悲惨な事件である。嫌なあだ名を呼ばれて苦痛だったらしいが、事件発生以来の学校側の記者会見や記事をみていると、どうも反応が鈍い。教育現場での大事件に、どのような対応をとってよいのか、何を話して良いのか、自身にどのような責任があるのか、把握できていないような会見だった。
 このような会見を最近見たなと思ったが、JR西日本社長の福知山線事故の会見ととても似ているのだ。なにが似ているのか。校長も、社長も起きた事件の責任を認識しないまま、淡々と起きた内容を繰り返し、原因は不明だと言い、あたかも別に事件の原因があるかのような口ぶりだ。また会見の態度も、目が泳いでいて、記者達をしっかり見つめることもできない。そして、時代遅れの「広い意味でのいじめ」という言葉が出てくる。「広義のいじめ」の定義は、いじめているつもりがないが、抵抗する手段が無い相手が精神的苦痛を感じることである。たとえば、会社の同僚(男)が、「やぁ元気かい?」と同僚(女)の背中を軽く叩くだけで、その同僚(女)が嫌悪感を感じた場合、セクシャルハラスメントとなり、これは広義のいじめである。
 このような広義のいじめは、いたるところで日常的に起きている可能性がある。まして、学校という閉鎖的社会では、起きる可能性はある。それが発生しているかどうかを常にワッチして、もしおきていれば、きちんとフォローするのが教師の勤めではないだろうか。なかなかわかりにくいという指摘は気持ちとしてはわかるが、こうした広義のいじめがあったことが、生徒達から教師に情報があがってこないという、組織のコミュニケーション硬直化が、根本にあったのではないか。また教師から教頭、校長への報告などのコミュニケーションも充実していたとは考えられない。
 問題の生徒の印象が校長と、ほかの生徒達のコメントが食い違っているのも、この学校が寡黙な生徒に対しては、関心を寄せていないことがわかる。「(おとなしい+成績が良い)=問題ない」といったステレオタイプで、人物評を行っていたことも明白だ。
 一方ほかの生徒は、彼の内心にくすぶっていた不満や、怒りをしっかりと受け止めていたようだ。「何かしでかしそうだ」というコメントに現れていると思う。
 「広義のいじめ」に話を戻そう。このいじめの場合、いじめる側に加害者意識が無いため、どうしても、被害者(いじめられる)側に非があるようにいわれがちである。また、被害者の周囲の人々も、傍観者になってしまうと、被害者が孤立化し、苦痛はますます加速する。その態度に、加害者はおもしろがって、いじめがエスカレートしていく。傍観者が、加害者側におもしろみを感じて、いじめに荷担するケースが大半で、被害者側にたって、いじめを食い止めることは少ない。
 こうやって考えると、「広義のいじめ」はあくまでも、いじめの発端、初期的な現象であって、いじめ自身なのだ。この高校の校長が「広い意味でのいじめはあったかもしれない」と、初期的ないじめがあった(かもしれない)という言葉は、自らの学校で何が起きていたか、まったく把握していなかったことを告白しただけだ。原因究明や追求する意識など、さらさらない、ということを白状しただけだ。
 悲惨な事件は、増殖する心の傷に誰も気づかず、ケアしようとしなかった教師や大人達、周囲によって、孤立化した生徒によって起きたのだ。そして、誰もが取り返しのつかない心の傷を負った。
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by namuko06 | 2005-06-15 21:18 | ニュース
「歴史洗脳を解く!」 読了
 副題は「ネット授業で大学生はどう変わったか」である。
 本書の主題は、歴史教科書問題に端を発した、我が国を2分するような歴史認識の差異を教材にして、学生達が持っていた歴史知識を一度破壊して、再構築させるというそのプロセスをメディア・リテラシー教育の一環として行った、その課程をドキュメンタリー・タッチで記述したものである。
 本来、歴史教育とは個々のアイデンティティの確立、過去の事件・事実の記述に対して批判的に解釈できるようになること、そして将来のビジョンを描くことができるようになること、と僕は考えている。本書で行われた授業では、この2点目が強調されている。筆者のネット授業では、学生同士、学生と教師間で、他者からの批判を受け入れ、自己の歴史観への批判、他者への批判といったことが行われていく。メディア・リテラシーを身につけるためにネット掲示板での討議が果たして有効なのか、本書を読むまで疑問だったが、ある程度の成功を収めていることは本書に書かれているとおりだろう。しかし、本書で重要だと思われる第1部第2章の結論展開は、雑である。結論(まとめと表している)に述べられている事項は、本論中では「〜かも知れない」、「〜と思っているのだろう」、「〜と期待できるからであろう」という推測レベルにとどまっているのに、まとめ部分で断定的な言い回しになっている。そしてそのまま、それ以降の章で論理展開の前提として使われている。これは推測を仮定として、その仮定の上に推論を重ねているため、全体として、論旨の帰着点が弱くなっている感を否めない。逆説的に、その仮定を証明するような章をもうけても良かったのかも知れない。
 また、相関図と称する図も出てくるが、本書がわかりやすさを追求するあまり、相関関係の統計的証明もお座なりで、この章を読む際にはかなり苦痛だった。
 さて、このような知識再構築がネット掲示板での授業が有効かどうか、という点だが筆者は「脱洗脳による苦痛に耐えられないこともある」という節で、授業を捨てた生徒がいる点を、その生徒の精神的苦痛の根幹を見逃しているように思える。僕はその生徒の「空想力のない、言葉ばっかりの書き込み、そういうものを呼んだり書いたりするのに飽きました」という言葉に着目する。一般的にリアルタイムで耳から入ってくる言葉、声のトーンや相手の態度といった付加情報を伴ったコミュニケーションの方が、チャットのような文字だけのコミュニケーションにくらべて、聴く側の理解は速い。いわゆるマルチチャネル・コミュニケーション(バーバルとノンバーバルコミュニケーションの組み合わせといった方が良いだろう)の利点である。この授業を捨てた生徒は筆者が「優秀」であるというように、マルチチャネル・コミュニケーションに長けた人物であるが故に、シングルチャネル・コミュニケーションであり、しかも非同期的なネット掲示板での議論には違和感を覚え、このような授業形態を拒否したのではないか。
 特に(冒頭で2分すると言っていたが)、様々な考え方、視点を持つ歴史観という題材であったがゆえに、微妙な言い回しや、両論並び立つ事象などへの議論について、ネット掲示板の限界が露呈したのではないだろうか。このあたりは、本書もっと丁寧な説明が欲しかった。そして、ネット掲示板による集団的思考の効果と、そのコントロールについても記述が少なく、僕にとっては消化不良である。できれば筆者の専門であるメディア・コミュニケーション論として、もっと読みたいと感じた部分であり、筆者の続編に期待する。
 さて、やや辛口の評となってしまったが、これは筆者が私の大先輩にあたる人物であり、とても尊敬している方であるがゆえに、失礼を承知の上で、感じるがままに批判させていただいた次第である。また、本書を入手して読了するまでに時間がかかったのは、再三三度読み返したり、ほかの文献書籍を漁ったりしていたからで、僕の不勉強のせいである。
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by namuko06 | 2005-06-11 20:28 | 読書
四日間の奇跡、スターウォーズ・エピソード3 読了
どちらも映画化作品だが、どちらの映画も見る前に読了。「映画を見るんだったら原作読まない方がよい」と妻はいうのだが、僕にとっては、単にタイミングの問題だ。映画を観てから読む、読んでから観る、実際どちらでもよい。気に入った映画は何度でも観るし、原作があれば何度でも読む。問題は、その物語や作品が深く掘り下げる価値があるかどうか、だけだ。
 さて、「四日間の奇跡」は、さらりと読めた。可もなく不可もなく。欲を言えば物語に出てくる楽曲があまりにも思い入れがなさすぎること。奇跡とはほど遠い楽曲が多い。できれば、弾き手にとってきわめて困難なもの、宗教的なものを選んでみても良かったかと思う。曲のフレーズを伏線とするには、あまりにも安易すぎる曲を選んでしまったような印象だ。作者自身の思い入れも、たんなる郷愁としか思えない。気になるのは、映画の方だ。石田ゆり子と吉岡秀隆がどのような演技をするのか、期待に胸はふくらむ。
 「エピソード3」については、謎が一挙に解決したという爽快感があった。仮想世界の技術用語(しかもカタカナが長い!)に四苦八苦しながらも、すべてのエピソードの帰着点でもあり始まりでもある物語だった。熱狂的な妻のために、これ以上は語るべきではないだろう。映画の公開が待ち遠しい!
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by namuko06 | 2005-06-10 21:23 | 読書
文明のあるべき姿
Excite News: 韓国併合で見解対立 歴史共同研究の全文公開
 3年間という短い間に、韓国と日本における歴史認識の違いを明確にし、共通認識はより深く解釈するという重要な仕事を終えられた両国の研究者の方々に、敬意を表したい。この間に亡くなった方もいらっしゃるようで、道半ばにして無念であったろう想像できる。追悼の意を表す。
 さて、過去の事実の解釈について、徹底的に批判的にならなければ両国の歴史認識の差など縮まないし、お互いに理解などできないと思う。報告書の全編に目を通したわけではないが、両国の研究者は自身の研究にも、他者の研究にも徹底的に批判的に、証拠主義を貫いて議論を繰り返し、認識(違いも、共通点も)を深めていったことがよくわかる報告書になっているようにおもえる。この活動は、韓国と日本の歴史学者がきわめて高い知性を持ち、文明のあるべき姿を捉えているからできたことである。批判主義を貫いたおかげで、両国の歴史認識を深めるための課題も数多く発見されたことは、喜ばしいことである。是非、継続してこの課題点を解決すべく両国の歴史学者は努力すべきであろう。
 一方、おそらく、韓国、日本の一部のニュース・メディアは歴史認識が一致しないことを強く訴え、お互いの主張がさも相容れなかったような論調を繰り返すだろうが、これは大きな誤りである。
 僕たちができることは、発表された報告書を丁寧に読み、自身の価値観、歴史観に照らし合わせて、再修正を行うこと、課題点を整理することであろう。報告書は刊行される予定もあるらしく、また本報告書には添付されなかったが年表の作成も進んでいるらしくこれにもとても興味がある。
 この報告書はハングル本もあり、是非北朝鮮の歴史研究者にも目を通してほしい。
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by namuko06 | 2005-06-10 15:21 | ニュース
郵政民営化よりも大事件!
Excite News: アップルのインテル移行は成功するか
MacintoshがモトローラからインテルのCPUを搭載したPCになる という噂はこれまで、幾度となく流れては消え、夢は幻と化してきた。僕にとって今回のジョブズ氏の発表は、待ちに待ったアップルの転換だ。すでに、開発者向けに開発キットの配布も始まっているようだし、WindowsアプリケーションもRossetta Stoneというゲートウェイソフトを経由することで、そのまま使えるという話もある。ソフトウェア開発側のデメリットはかなり少ないと思う。
 インテル系のハードウェアを採用することで最大のメリットは、ハードウェア価格を下げられることだろう。これはユーザにとって一番の売りだ。Mac miniは確かに安い。しかし、Mac miniが3万円台で手にはいるとすれば、爆発的に売れるだろう。インテル系ハードウェアの場合、こういったことが可能になる。
 Macintoshの最も優れた点は、ハードウェア設計が洗練されていることだ。これが、現在のDOS/V-AT互換機路線を進んでいるハードウェアメーカーにとって脅威となるだろう。
 あとは、いつ新機種が発表になるのかが、問題だ。
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by namuko06 | 2005-06-07 21:00 | コンピュータ/科学