ふと思いついたこと
by namuko06
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観世音菩薩というスーパーマン
たまたま出席した葬儀で、観世音菩薩普門品偈(観音経)をきいた。これは法華経の第25章にある「観世音菩薩普門品」の中の韻文体で書かれた偈(げ)の部分である。僧侶の読経ではなかなか全文を聞いて理解するのは難しかったので、帰ってきて岩波文庫の「法華経」をひもといてみた。法華経は、生きていく上での様々な苦痛から逃れる術を、釈迦と弟子達の会話形式で説明したものであるが、とくに観音経は、観世音菩薩を登場させ、普門、すなわちどのような方向からでも苦しんでいる者を救う話である。観世音菩薩は名前の通り、困っているときに「かんのんさま〜」と叫べば、それを聞き入れて、救ってくれる菩薩であるが、助けるためには、姿形を変えて困っている者の前に現れて直接手助けをしてくれる、スーパーマンなのだ。
 逆説的に言うならば、自分が困っているときに助けてくれた医者なり、友人などは、すべて観世音菩薩の慈悲によるもといえるだろう。
 肉体的に死を迎えた者も、同様である。仏教的な此岸から彼岸までの道すがら様々な困難が待ち受けているに違いない霊達にも観世音菩薩は手をさしのべてくれる。
 このように精神的な死による苦痛を救うために、観世音菩薩は自由自在な行為によって、その目的を果たしてくれるのだが、葬儀の最中に観音経の本質を理解することは、信仰心の薄い私にはなかなか難しかった。しかし、「助けて、かんのんさま〜」と願うだけで、観音様が変身した何者かが助けてくれる、というのは妙に説得力がある。
 電車の中で急な腹痛に見舞われ、「苦しい助けて〜」と心の中で叫びながら、倒れたときに周囲の人々が助け起こしてくれたりすると、助かった安堵感とともに、助けてくれた人々に対して感謝の念が自然とわき起こってくる。
 身内の死を受け入れられなくて、悲しくて心苦しんでいるときに、「誰か、助けてくれ」と願ったところ、友人達が代わる代わる家に来て、話を聞いてくれたり、慰めたりしてくれ、心がだんだんと安らかになっていく。
 このようなことが、観音経の本質なのであろうと、理解した。
 しかし、日々ニュースを見ていると、どうしてもっとはやくに誰かが救わなかったのか、と思うような犯罪、事件があまりにも多い。救われない理由がどこかにあったのだろうか。死を境界とした精神的な救済の思想は、まだまだ勉強する必要があるな。
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by namuko06 | 2006-06-30 14:17 | 日記
受け継いだ炬火を消さないために
死について考えている。「死は避けられないものである以上、それがいつ来るのかが大切なことなのだろうか。」(モンテーニュ) 死への恐怖や悲しみは、それが起こることを忌み嫌う。だからそれが「いつ来るのか」敏感にならざるを得ない。しかし、「われわれの誕生はわれわれにすべてのものごとの誕生をもたらしたように、われわれの死はすべてのものごとの死をもとらすだろう」とあるように、生を受けたものは必ず死ぬのだ。そして「一度しか起こらないことは、苦しいものではあり得ない」のだ。個々の死は生と同じように自然が強要したものでしかない。
 しかし、私たちは身近な者の死を、そして自身の死を恐れや悲しみと切り離して、客観視できない。それは肉体的な死と精神的な死が同期しないからなのだ。「死すべき人間たちはたがいにいのちをうけわたす。あたかも走者が炬火をうけわたすように」(ルクレティウス『事物の本性について』)精神的な魂の継承が行われなければ、精神的な死を受け入れたことにはならないのだ。
 死への道は、すなわち生であり、死の直前までの肉体的苦痛を乗り越え、精神的苦痛に耐えたものだけが、死んだ者の炬火を受け取ることができる。そして、死によってあらゆる苦痛から解放されたものは、受け渡した炬火を遠ざかりながら眺め、新たな誕生の準備にとりかかるのだ。
 いつ炬火を受け取れるかどうかは、受け取るべき私たちが精神的な死を受け入れられるだけの準備ができているかどうかで決まる。そして、私たちがいつ、誰かに炬火を受け渡すかどうかは、自身の肉体的精神的な死を乗り越え、耐えることができるかどうかで決まる。
 受け渡された炬火を消滅させることなく、さらに燃えさかえさせ、次の人間に受け渡すこと。これが今、死への道を歩んでいる「生きている」私たちにできることだ。
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by namuko06 | 2006-06-28 20:03 | 日記
後悔はまさにわれわれの意思を否定することにほかならない
玉田王国に一矢…左足一閃!! 鮮やか先制ゴール(夕刊フジ)
 ブラジルとの力の差は歴然としていた。日本は22日、ドルトムントでブラジルに1−4で完敗し、1次リーグ敗退が決定。玉田のゴールで先制したものの、後半は足が止まり防戦一方に陥った。
 2試合で無得点の高原、柳沢の代わりに巻、玉田の2トップでブラジルに挑んだ日本。序盤はブラジルの攻めをしのぎながら、速攻を狙う展開が続いた。前半7分、中央のロナウジーニョからエリア内でパスを受けたロナウドが、左足でシュート。これは川口が好セーブ。11分、15分にはドリブルで切れ込んだロビーニョのシュートを立て続けに川口がはじき返した。日本は右サイドの加地が起点となってたびたびブラジルゴールに迫ったが、決定力不足。
 その後もブラジルの猛攻が続いたが、34分、左サイドで稲本からのパスを受けた三都主がドリブルでエリア手前まで持ち込み、オフサイドラインぎりぎりを走る玉田へスルーパス。パスを受けた玉田がダイレクトで左足を振りぬき、GKとポストの狭い間にシュートを決め、日本が先制した。
 攻められながらリードするいい形で折り返しかけた前半のロスタイム、ロナウジーニョの浮き球のパスにシシーニョが頭で折り返し、中沢のマークを外したロナウドにヘディングシュートを決められ、同点とされた。
 これで集中が切れたのか、日本は後半に入ってもいいところなし。後半8分、ジュニーニョのミドルシュートは、無回転でゴール左に突き刺さり逆転。14分には、フィールド中央のロナウジーニョから長いスルーパスを受けたジウベルトが川口と1対1になり、右下隅に決められ、突き放された。
 15分には巻の代わりに高原が投入されたが、負傷して6分後に大黒と交代した。36分、ロナウドに、W杯史上通算最多ゴールタイ(14ゴール)となる4点目を決められ、実力の差をまざまざとみせつけられた。

 サッカーW杯の日本代表が予選リーグ敗退となった。世界中を巻き込んだこのお祭りは、これから決勝トーナメントが行われ、世界一を決めることとなる。様々なメディア、ブログ、ネット掲示板では、日本代表選手への激励、感謝もさることながら組織、監督、選手批判も大量に氾濫している。
 私は、このリーグ戦3戦を俯瞰して考えてみたい。初戦のオーストラリア戦では、肉弾的な敵の戦術にまんまと嵌ってしまい、クロアチア戦では互角の四相撲を展開し、ブラジル戦は、圧倒的な敵の戦力に対し、力尽きた、と言えるだろう。その中で、最終戦の玉田の思い切りの良い豪快なシュートは、燃え尽きる前の蝋燭の炎のようで美しかった。しかし、それだけだ。どの試合をみても、日本選手の体力不足は明らかだった。他グループ、他国チームは、後半になってもパワーやスピードが落ちない、緩急をつけた戦術を展開できる体力が十分に備わっていた。残念ながら日本代表にはそれがなかった。
 しかし、その原因が選手達にあるとは思えない。4年間の準備では、おそらく日本はスピード重視の戦略を打ち立ててきたに違いない、他国はパワーとスピード、持久力を総合力として上げてきた、その4年間の選手育成戦略に大きな違いがあったのではないか。
 さて、次のW杯ではどのような試合展開になるのか十分に検討して、4年間の選手育成戦略を立てなければならないだろう。とくにセンターフォワードとよべるべき、攻撃の要の育成と、90分フルパワーで動けるための持久力。そして、瞬時の判断力をもった選手の発掘と育成だ。
 これから、日本のサッカー選手達のさらなる成長を目に刻んでいきたい。
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by namuko06 | 2006-06-23 19:11 | スポーツ
「個人情報保護」ってわかっている?
今日の市役所での出来事である。私は、たまたまパンフレットをもらいに、立ち寄ったところだった。育児関係の市民講座に参加しようと、若い夫婦二人連れが担当窓口にあらわれた。
 「あの、すみません、○○講座に参加したいのですが。」
と、奥さんが窓口で言う。さっそく、担当者が対応を始めた。
 「えっーと、その講座は、申込者が多数ですので、抽選になります。来週初めに抽選を行いますので、ご氏名と、連絡先の電話番号を教えていただけますか。住所も記入していただければ、次回以降のの講座のご案内を送付させていただきます。」
と、手慣れた対応。
 そのとたん、夫の方が突然切れたように、
 「個人情報保護だ! 教える必要はない!」
と叫ぶ。担当者は驚いたまま、無言。奥さんの方は、
 「でも、参加したいから...」
と夫に言うのだが、まったく聞く耳を持たないようだ。
 「だめだ、個人情報保護だ!」
かわいそうに、夫の個人情報保護機能が強硬なために、奥さんは市民講座にも参加できない。このあと、夫婦連れは、窓口を礼も言わずに去ったが、担当者にしてみれば、ここで、市役所の個人情報保護制度などを丁寧に説明するチャンスだったのだが、切れた若い夫の態度にひるんでしまったのだろう。担当者も災難だった。
 なんでも、かんでも個人情報保護という名のもと、不自由な社会になったなぁ、と感じることも多いが、個人の基本情報と秘密にされなければならない情報の区別すらつかない人もいることに、あらためて気づかされた出来事だった。
 若い夫が切れて「個人情報保護!」と叫ぶ姿に、公的機関に対する信頼も薄らいでいるのかな、とも感じたのだった。
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by namuko06 | 2006-06-02 21:33 | 意見