<いじめ調査>やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識この記事の中で、
「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」(公立小6年男子)
という感想が気になる。少数とはいっても、このような思いを抱いている子どもがいることに悲しい。
まず、「いじめる行為」がその人の「個性」だと考えている、または思いこんでいるところが、この子どもの心の深い悩みを感じる。本来「個性」とは、個人と個人とを結びつけるための自分、もしくは相手を理解するための客観的に記述された性質のことである。したがって、それぞれの「個」がそれぞれの相手の中で、理解されるために必要な枠組みである。そこから相互理解が進んでいく、「個性」とはそういった文脈で使われなければならない。
また、「個性」とはK.ローレンツの言葉を借りれば、『個の結びつきは、攻撃性を抑制し和平をもたらす行動の仕組みのひとつ』をなすための重要な要素なのだ。
「いじめ」は人間の「攻撃性」がなんらかの形をもって発露したものであろう。その理由はローレンツの「攻撃」に詳しい。
・商業上の競争は、今日すくなくとも石器時代の人間の種族間での闘争が人間の種内攻撃性を高めたのと同じように、先ほどのもろもろの衝動を恐ろしいまでに育て上げてゆく作用がある
・せまいところにつめこまれていること(crowding)の結果、攻撃行動を起こしやすい状態になる
・熱狂している人間を支配している物は、(中略)ある種内攻撃性なのであって、しかもこれが太古そのままの、およそ昇華などされていない社会的防衛反応のかたちをとってあらわれるのだ
すなわち、多くの動物と同じように人間にも種内攻撃性が埋め込まれており、それが社会的競争の場に晒されることにより、さらには教室だけでなく地域、社会など「狭い(と感じられる)空間に押し込められて、攻撃行動を起こしやすくなる。そして、その攻撃行動は攻撃性を発露したいと欲求している人間を集め、熱狂状態となる。この熱狂が本来、種内攻撃性を封印すべき道徳や、タブー、倫理観をどこかに押しやるだけのパワーとなっているのだ。
ほとんどの動物の持つ種内攻撃は、それ自体は”悪”ではなく、種をいじする働きをもっている。しかし一方で攻撃を無害化し、封じ込める行動様式を持っている。意図された物かどうかはわからないが、それが自然なのだ。
こういった攻撃性を封じ込めるために人間はなにをすべきか。ローレンツは以下のようにいっている。
道徳的に動機付けられ攻撃禁止令を布くことだが、これによって攻撃性が征服されることはない。これらはともに、火にかけた窯の中で圧力が高まってくるのを、圧力便のところに閉鎖バネをもっと硬くねじ込むことによって防ごうとするのと同じような結構な戦略であろう。(中略)いちばん確かな成果を期待できるのは、攻撃欲を代償となる目的に向かって消散させることによってカタルシスを実現することだ。
ローレンツの「攻撃」には、丁寧な観察から得られた考察を、示唆に富んだ語り口で、私たちに人間の知恵を再教育してくれる。第14章「希望の糸」は、万人への希望の書となるであろう。小学生には難しい内容ではあるが、中学生、高校生は是非とも読んでもらいたい本である。