ふと思いついたこと
by namuko06
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犯罪現場を見ない教師達
「同学年の生徒が金要求」 埼玉の中3男子自殺

相談員に相談した生徒に対して、学年主任と教諭の指導コメントが、まったく被害生徒の身になっていないのがよくわかる。
「金銭を要求されたら親や先生に必ず言いなさい。渡したら駄目だ」

もう少し、細かな話が交わされたのだろうが、この面談が8日。11日には被害生徒は母親に恐喝されていることを伝えている。この3日間に教師達は加害者生徒に接触していないようだ。加害者生徒が怖くても、その加害者の親に連絡するなどの方法で、恐喝行為を止めさせる機会はいくらでもあっただろう。もしかすると、親に連絡したために加害者の生徒が怒り、被害生徒をさらに追い詰めた自殺した、もしくは殺した可能性も考えられる。

被害に遭っている生徒にいくら「がんばれ」と言っても、何も改善されない。加害者の行為を止めることがまず最初にしなければならないことだ。喧嘩の仲裁と同じ。強いヤツをまず止める。そして離す。こんな単純なことがなぜ教師達はできなかったのか。加害者の生徒を守るために、画策していたのか。そういうふうに邪推されてもしかたがないだろう。

それから、8日以降の教師達の被害生徒へのフォロー、ケアはどのように行われていたのだろうか? このあたりも今後のために、学校側は報告して欲しい。恐喝未遂として警察が動いても不思議ではない事件だと思う。
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by namuko06 | 2006-11-13 12:20 | ニュース
モラルジレンマ授業
ピアジェとコールバーグが提唱した道徳性の認知発達段階理論に基づくモラルジレンマ授業の様子をテレビ(フジ「とくダネ!」)でやっていた。小学校3年生の道徳の授業で「門番のマルコ」を題材に、対立する2つの道徳的価値観を互いのディスカッションを通じて、認知不均衡状態から脱却して、自分だけでなく相手の価値観を理解することで、尊重するようになる。テレビでの授業の様子は、まさにコールバーグの0段階の自己希求志向から4段階の社会システムの道徳性の直前まで、子どもたちが認知発達したことを示していた(全部で6段階ある)。ステージで言えば前慣習的水準から慣習的水準へと道徳的価値観が向上したことになる。僕の勤める会社でもヒューマンスキル向上のための教育として、このようなケースメソッドを取り入れた手法を多く取り入れている。問題解決やコミュニケーション、リーダーシップ能力の開発に使っている。

道徳の教育は大変難しいが、小学生の子どもだからこそ、物語の世界へ没頭し、ジレンマをあたかも自分のものとして考えることが出来るのだろう。これを実験で終わらせるだけでなく、全国で広まって欲しいとも思った。

K.ローレンツは、人間が本質的に持つ攻撃性は道徳という栓では、完全に塞ぐことは出来ないと言ってはいるが、それをわかった上で、効果的な教育を行うことで、少なくとも壊れにくい栓を作ることは可能である。モラルジレンマ授業が、いじめ問題の根本要因のひとつである相手を尊重するという道徳観を育むのではないだろうか。
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by namuko06 | 2006-11-08 10:23 | 教育/子育て
攻撃性を解き放したのはなにか
<いじめ調査>やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識

この記事の中で、
「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」(公立小6年男子)

という感想が気になる。少数とはいっても、このような思いを抱いている子どもがいることに悲しい。
 まず、「いじめる行為」がその人の「個性」だと考えている、または思いこんでいるところが、この子どもの心の深い悩みを感じる。本来「個性」とは、個人と個人とを結びつけるための自分、もしくは相手を理解するための客観的に記述された性質のことである。したがって、それぞれの「個」がそれぞれの相手の中で、理解されるために必要な枠組みである。そこから相互理解が進んでいく、「個性」とはそういった文脈で使われなければならない。
 また、「個性」とはK.ローレンツの言葉を借りれば、『個の結びつきは、攻撃性を抑制し和平をもたらす行動の仕組みのひとつ』をなすための重要な要素なのだ。
 「いじめ」は人間の「攻撃性」がなんらかの形をもって発露したものであろう。その理由はローレンツの「攻撃」に詳しい。
・商業上の競争は、今日すくなくとも石器時代の人間の種族間での闘争が人間の種内攻撃性を高めたのと同じように、先ほどのもろもろの衝動を恐ろしいまでに育て上げてゆく作用がある
・せまいところにつめこまれていること(crowding)の結果、攻撃行動を起こしやすい状態になる
・熱狂している人間を支配している物は、(中略)ある種内攻撃性なのであって、しかもこれが太古そのままの、およそ昇華などされていない社会的防衛反応のかたちをとってあらわれるのだ

 すなわち、多くの動物と同じように人間にも種内攻撃性が埋め込まれており、それが社会的競争の場に晒されることにより、さらには教室だけでなく地域、社会など「狭い(と感じられる)空間に押し込められて、攻撃行動を起こしやすくなる。そして、その攻撃行動は攻撃性を発露したいと欲求している人間を集め、熱狂状態となる。この熱狂が本来、種内攻撃性を封印すべき道徳や、タブー、倫理観をどこかに押しやるだけのパワーとなっているのだ。

 ほとんどの動物の持つ種内攻撃は、それ自体は”悪”ではなく、種をいじする働きをもっている。しかし一方で攻撃を無害化し、封じ込める行動様式を持っている。意図された物かどうかはわからないが、それが自然なのだ。
 こういった攻撃性を封じ込めるために人間はなにをすべきか。ローレンツは以下のようにいっている。
道徳的に動機付けられ攻撃禁止令を布くことだが、これによって攻撃性が征服されることはない。これらはともに、火にかけた窯の中で圧力が高まってくるのを、圧力便のところに閉鎖バネをもっと硬くねじ込むことによって防ごうとするのと同じような結構な戦略であろう。(中略)いちばん確かな成果を期待できるのは、攻撃欲を代償となる目的に向かって消散させることによってカタルシスを実現することだ。

 ローレンツの「攻撃」には、丁寧な観察から得られた考察を、示唆に富んだ語り口で、私たちに人間の知恵を再教育してくれる。第14章「希望の糸」は、万人への希望の書となるであろう。小学生には難しい内容ではあるが、中学生、高校生は是非とも読んでもらいたい本である。
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by namuko06 | 2006-11-07 13:28 | ニュース
死に急ぐべからず
痛ましいとしか思えない。教育者の自殺に対して非難あり、そして同情あり。私自身は正直言ってどちらの立場とも明確にできない。亡くなった校長は自宅にきちんとした遺書を残したことから、覚悟の自死であったことは間違いない。
 もしも、自分が彼の立場だったらと思うと、青雲の志を抱いて入学してきた子どもたちの将来に傷をつけるような事態を引き起こした責任を何らかの形でとらなければならないと考えるだろう。その責任の取り方に、すべての対策を終えた後に、教育者を辞めるという選択があっただろう。しかし、彼はそれをしなかった。となれば自死することによって責任を明確にするという思いがあったのはないだろうか。校長を辞任した後でのうのうと生きても、子どもたちに残った傷は一生消えることもなく、信頼を無くした自分には癒すことも出来ない。ならば、命をもってしか償えない責任があることを示すことが教育者としての役割だと、私ならば考えるだろう。だからこそ、命は粗末にあつかうのではなく、命をかけて謝罪するのが人間としての道であると教えたかったのはないだろうか。ましてや教育者として、他人の子どもを預かり、人間を育む立場の者は、命がけの仕事であることをも伝えたかったのではないだろうか。このタイミングで死んだことが、なによりも雄弁に物語っているように思える。
 だが、もう一方の私は、死に急ぐべきではないとも思っている。このような問題を二度と出さないように自分が今後なすべきことを実践して見せていくことも、傷ついた子どもたちを癒し、謝罪し続ける方法ではなかったかと思うのだ。
 まだまだ、考えなければならない、重く深い事実だ。
 ご冥福をお祈りしております。

<高校長自殺>生徒に経緯説明…履修不足発覚の茨城・佐竹高 [ 10月31日 11時42分 ]毎日新聞

 履修単位不足が発覚した茨城県立佐竹高校(同県常陸太田市)の校長、高久裕一郎さん(58)が自殺したことについて、同校は31日午前、体育館で全校集会を開き、約590人の生徒に経緯を説明した。
 冒頭、根本滋教頭が「校長が自ら命を絶つという痛ましい事故が起きてしまった」と報告し、全員で黙とう。自殺の原因について根本教頭は「(履修単位不足問題と)直接に関係があるかは分からない」としながらも、「(履修単位不足が発覚した翌日の)27日に、校長は生徒への説明やマスコミへの対応に追われ、お疲れの様子だった」と振り返った。
 出席した3年の女子生徒(17)は「補習授業はさほど苦にならない。(校長先生は)思い詰めてしまったのだろうか」と悼んだ。また、1年生の女子生徒を学校まで車で送ってきた母親(54)は「自殺は非常に残念。履修不足の対応に追われていただけにプレッシャーが大きかったのかもしれません。ただ、最後まで責任を持って対応して欲しかった」と沈痛な表情で話した。【原田啓之】

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by namuko06 | 2006-10-31 16:32 | ニュース
現場主義の崩壊
<履修不足>350回の補習も 不安渦巻く生徒たち

伊吹文科相の言い分
「卒業証書を出すまでの間に学習指導要領に決めた通りの授業は受けていただく。特別な配慮は難しい。みんなが決めたルールを守るところから社会の秩序は成り立っている」と述べた。さらに責任の所在について「所管をしている教育委員会そのものに責任があるんじゃないか」と言及した。


ある高校の事情、校長の言い分
盛岡市の私立盛岡中央高では、普通科特進コースの3年生51人の履修不足は10単位に上る。履修が必要なのは世界史B、家庭基礎、情報A、芸術の4科目。50分の補習を計350回受けなければ卒業できない。
 対応策について、3年生は補習やリポートなどで補充する予定だが、生徒の負担を軽減する措置を検討中という。富澤正一校長は「学習指導要領にのっとらなかったことは悪かったと思っている。しかし生徒のためを思って、進路目標を達成させるためにやったことだ」と強調する。未履修科目の授業時間には受験に必要な科目の授業をしていた。少なくとも97年ごろから行っていたという。


生徒の言い分
・「仕方ないと思う。はっきり言って私たちの責任でもないです」

・「補習は受験が落ち着いてからやるという話もあるけど、国公立の後期は長引く。大学に合格した人と落ちた人がまた集まって一緒に補習するのは嫌だ」

・「どこの学校でもやってたわけだし、大学入試制度が変わらない限りどうしようもない」

・「友達の中には負担に感じて泣いている子もいる。センター試験が終わった後に補習してほしい」


これまで、学校の中のことは「教育の現場」として聖域化していた。学校で起きる様々の事柄は「現場」の意見を尊重することが、教育を受ける生徒にとって大切なことだと誰もが信じていた。この「現場」を主張する学校が、「生徒のためを思って」教育指導要領を無視したのだ。結果として、不利益は生徒達に降りかかってきた。これは、学校の言う「現場」を重視した教育方針である「現場主義」が、実は様々の問題を覆い隠すための陽炎ではないかと邪推してしまう。それを裏付けるように校長の言葉は続く、「進路目標を達成させるためにやったことだ」と。教育の最終目的は進路目標の達成ではないことは明白だ。教育の結果、進路目標が設定でき、実現するために生徒達は努力するのだ。目標と目的を取り違えるような教育者が教育に携わっている限り、「現場主義」とはあきらかに目標達成の「成果主義」に他ならない。何と、荒廃した姿ではないか。ゲーテは『ファウスト』でこう書いている。
  『おれを絶望的なほど不安にしうるのは、抑制できない諸要素の無目的な力だ』
「現場主義」が「成果主義」に置き換わった瞬間に、様々な目標が無目的に設定されていく。それは受験対策という環境に適用とするごく自然な、本能的な認識過程である。これこそ無目的の本質である。人間としてのインテリジェンスを失い、計画性を失い、そして人間としての向上心を失った結果である。これこそ、K.ローレンツが『文明化した人間の八つの大罪』『人間性の解体』などで述べている、人間を破滅の危機にさらしているという技術主義的システム化における人間の姿ではないか。

 さて、現場の教育者が教育に燃えていた頃の「現場主義」から「成果主義」に勘違いしたのはなぜであろうか。様々な要素がある、文科省、教育委員会の方針や評価制度の変更、社会的な学歴偏重主義、ゆとり教育による生徒達の学力低下、教師への社会的信頼低下などなど。どれもこれも非人間的な要素だ。こういった要素が重なって、非可逆的な構造を生んでしまったと、私には思える。

「教育再生」というのが今度の安部総理の公約のひとつであるが、非人間的な教育から、人間的な教育を取り戻すことが、教育者にとっても、生徒達にとっても、教育を通して人間性を獲得し生き返ること、これが目的である。「教育再生」には目標はないのだ。この目的は数々のマイルストーンを通りながら、全員で道を開拓し、進んでいかなければならない。それは下り坂かも知れないし、上り坂かも知れない。しかし、目的を掲げて進むことこそ、一方通行で進行する技術主義的システムの非人間性の浸透を食い止める道である。心してかからなければならない。
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by namuko06 | 2006-10-28 21:06 | ニュース
内部調査では明らかにはならない
<福岡いじめ自殺>教諭発言、一転因果関係認めず 校長会見 [ 10月16日 10時32分 ]毎日新聞

 福岡県筑前町の町立三輪中2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した問題で、合谷(ごうや)智校長が16日未明、記者会見し、男子生徒の1年時の担任教諭で、現在2年の学年主任(47)が、男子生徒に対するいじめ発言を繰り返し、それが発端になって生徒たちによるいじめが広がったことを認める一方、教諭の発言と自殺との直接の因果関係については「認められないと思う」と述べた。

 合谷校長は15日朝、自殺した男子生徒の家に赴き、遺族に対して「教諭のいじめ発言は自殺に結びついている」と説明していた。だが、16日未明の記者会見で、合谷校長は「遺族への説明時には冷静さを欠いてしまい、『因果関係がある』と説明してしまった。もう一度考え直すと情報が少なく、より多くの情報を集めて分析してみないと因果関係については分からない」と述べた。学年主任は15日、体調を崩したという。【倉岡一樹】

 ◇全生徒対象にアンケで「調べ直す」…生徒宅訪問の校長

 合谷校長は16日午前1時半すぎに教頭とともに自殺した男子生徒宅を訪問、両親と2時間近くにわたって面会した。父親によると、校長は全生徒を対象に教諭らによるいじめについてのアンケートを16日に無記名で実施することを伝え、「もう一度最初から調べ直します」と答えたという。

 校長らは面会後、報道陣の質問に一切答えず、無言で車に乗り込んだ。

 自宅玄関で取材に応じた父親は「(1年時の)担任が引き金となってその後の(生徒たちによる)いじめが続いたという説明を受けた。でも、私たちが思っているのはそうじゃない。(担任のいじめは生徒が)2年になってからも日常的に続いていた。納得できない」と語気を強めた。

 言っていることがなんども変わるというのは、管理責任者としての校長という立場からみても、最低な対応である。しかも、謝罪内容が変わるというのならば、もう一度遺族の前で、説明しなおして、承諾を得てから会見を開くべきであろう。そういった、大人の対応ができないところからして、校長失格であり、学校運営、教師の管理もずさんだったことをうかがい知ることが出来る。
 このような学校が存在していること自体、許されぬことであり、これを野放しにしている関係者は、事なかれ主義で過ごしてきたこれまでの対応に恥を知るべきだ。

 時代錯誤のようなことを言うが、役人と言えば昔は武士だった。不祥事が起きれば、切腹、家名断絶・一家離散、というのは常道だったはず。だからそれなりの覚悟で仕事に臨んでいたわけだが、現代の役人(教職員も役人)は、それだけの覚悟は皆無だ。もちろん、きちんと覚悟して職務に望んでいる人も多いが。
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by namuko06 | 2006-10-16 12:30 | ニュース
放任ではなく放置、主義ではなく怠惰
 わらび餅を作る教室に家族で参加した。パン作りやウィンナー作りと同じ教室だったので、若いカップルから、子ども会、親子連れで大いににぎわっていた。わらび餅は、わらび粉に砂糖や水などを入れて、鍋を火にかけ、ひたすら混ぜ、練る作業だ。粘度が上がると、混ぜるだけで一苦労、子どもたちと交代しながら、焦げないように必死で練った。
 さて、問題はわらび餅作りではなく、となりのウィンナー作りに来ていた家族だ。3歳ぐらいの男の子が教室中をひたすら走り回っている。どたどたと床の埃を舞い揚げながらだ。食べ物を作るこういった教室では、結構清潔にはうるさく、手洗いやテーブルの消毒などこまめに行っている。その中で、その子どもが、床に寝そべった手をテーブルにこすりつけるような行為は、私には汚くて見ていてぞっとするものだった。また、わらび餅作りでは卓上コンロを使っているので、練っている人にその子どもがぶつかったりすれば、間違いなく誰かがやけどをするだろうと、思うと冷や冷やしっぱなしだった。それは誰もがそうだったようで、その子どもがこちらに来ると、何度も注意していたのだった。あまりにも危ないので、「この子の親御さんはどちらですか?」と言ったところ、やっと父親が登場。しかし、効き目はなく、またも子どもは放置されたまま、親は自分のウィンナー作りにいそしんでおり、走り回っていた。
 この母親はというと、不思議な感覚の人間で、私達が作業していたテーブルで使っていた椅子を、ちょっと椅子から離れた隙に、自分のテーブルに持って行ってしまったのだ。自分のテーブルのそばに空いた椅子があるにもかかわらず。そこで、私は「この椅子使っているのです、持って行かないで」というと、「すみません」ではなく「わざわざ持ってきたのに」と非難するような口調で返してくる。けんかするのもばからしく無視をきめこんだが、この親にこの子あり、というのがなんとなく納得してしまった。
 放任主義という子どもをのびのびと育てましょう、という主義があるようだが、今回の走り回る子どもは、そのような主義で育てられているのではない。親が何かをしている間、子どもを野放しに「放置」するという、たんなる子育ての怠慢、怠惰な行為である。自分の行為が他人にどの程度の影響を与えられるかわからない人間は、自分の子どもの行為についても推し量ろうとはしない。今回の親子はまさにその典型だろう。
 子育てに対する責任という抽象的な言葉で、かつては私も書いたり喋ったりしていたが、本質的には、行為に対する怠惰か、そうでないかの違いでしかない。怠惰な人間は子どもを生んではならない。生まれた子どもが不憫である。自分の子どもを含めた自身の他人への影響を想像しない怠惰こそが、社会性の欠如を露呈させるのだ。そこに考え及ばない人間は、大人としての役割を果たせていないのだ。
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by namuko06 | 2006-07-25 15:48 | 教育/子育て
だるまさんがころんだ
 うちの子どもたちは、いつもは子ども部屋にあるベッドに離れて眠っているのだが、夏になると和室に布団を並べて寝るようになる。今年もそんな時期がきた。並んで寝るのが楽しいのか、部屋が暗くなっても、なかなか寝ない。ぺちゃくちゃおしゃべりをしたり、おもちゃで遊んだりしている。
 昨夜も、3連休の最後の夜だったせいか、ハイテンションな二人は、がさごそ、ぺちゃくちゃとかなり遅くまで起きていた。妻も私も「はやくねろよ〜」「明日は学校だよ〜」と言ってはみるものの、まったく聞く耳をもたない。
 そこで、私はそっと和室に忍び寄り、いきなり部屋の明かりを点けた。そうしたところ、次女はちょうどなにかをとろうとしていたのか、右手が枕の上に伸び、左膝を布団につけ、右足が空中に彷徨ったまま、体が硬直状態。その状態のまま、顔は枕に突っ伏している。
 私は、笑いをこらえて、「こらっ!」と言いながら、次女のおでこをピシリとはたく。「そんな格好のまま寝ている人はいないぞ〜」
 それを聞いた長女はあわててタオルケットを頭からかぶり、ゆっくりと私に背を向ける態勢に動いている。私は、「動くんじゃない!」と、長女のおでこをピシャリ。
 まるで、だるまさんがころんだで遊んでいるようだ。しばらく仁王立ちになって二人を見ていたが、次女は硬直状態からピクリとも動こうとしない。長女も私に背を向けたまま、動かない。私は、必死で笑いをこらえながら、「早くねなさい!」と言い捨てて、明かりを消したのだった。
 このことを、妻に話して、二人で大笑い。特に次女の右手、右足が空中に彷徨い、のけぞった体勢は見事で、そのまねをして、大笑いしてしまった。
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by namuko06 | 2006-07-18 17:09 | 日記
赤ちゃんに触れないでコミュニケーションできるのか?
 雨の日曜日、図書館はいろいろな人でごった返していた。雨だというのに、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた親子が多いように見えた。幼稚園、小学生と親子連れなども非常に多かった。そのせいか、とてもにぎやかで、子どもの発する奇声だけでなく、無遠慮に声の大きな大人の会話なども多く、ゆっくり本を読んで選ぶといったことは、まったくできなかった。
 さて、私が本を探していると、突然後ろで、赤ん坊のわめき声がしたので、びっくりして、振り向くとベビーカーの中で、両足を踏ん張って「ギャー」っと泣き声を立てている。図書館の雑踏と化した雰囲気にあきたのだろうか、おなかがすいたのだろうか、生まれて数ヶ月の赤ん坊は、とにかくこの場所にいるのが不愉快らしい。母親は椅子に座って本を読んでいたが、
 「○○ちゃん、ちょっとだまってて」
と言っただけで、赤ん坊をあやそうともしない。赤ん坊を睨み付けている。目で赤ん坊を制止しているように見えた。そこで赤ん坊がだまったので、さすが母親の「ひとにらみ」は違うな、と感心しながら、私は本選びに戻った。
 数秒後、ふたたび後ろから「ギャーギャー」と泣き声。またも不覚をとって、びくりとしてしまったが、泣き声が継続しないので、ほっておいた。
 ところが、この泣き声はだんだんとエスカレートして最後には悲鳴のようになった。そのたびに母親は「静かにしなさい」「いいかげんにして」と言葉で赤ん坊をコントロールしようとしていたが、まったくの無駄のようだ。
 ふと、「なぜ、この母親は自分の読書をやめて、赤ん坊をベビーカーから抱き起こすなり、顔を近づけて、あやしたりしないのだろう」と考えて、思わずこの母親をじっとみつめてしまった。そして、この母親と視線があってしまった。彼女はさすがに迷惑とおもったのか、私の視線に避難の色があったのかわからないが、ベビーカーを押して図書館の隅の方へ行ってしまった。そのせいか、一瞬泣き声は止まった。しかし、隅の方で赤ん坊は再びぐずりはじめ、私が図書館にいる間、何度となくこの赤ん坊の悲鳴を聞いた。
 見る限りにおいて、まだ自分で立ち上がることも出来ず、言葉も発することが出来ない赤ん坊が、「ギャー」と周囲の迷惑になるような音量で泣く行為に対して、この母親は自分の読書を中断することなく、効果のない言葉による制止を何度か試みた。それらはすべて失敗で、赤ん坊は自制を完全に失ってしまったが、この母親が、なぜ私の妻のようにぐずり始めた子どもに触れて、何が原因なのか理解しようとしないのか。うちの場合は紙おむつは使わなかったので、ほとんどの場合、おむつが洪水で鳴いているケースが大半だったが。
 赤ん坊が泣くことが迷惑ではなく(赤ん坊の仕事は泣くことと、眠ることだ)、泣いている原因を理解して取り除かない、母親の行為(この場合、行動しない行為)が迷惑なのだ。もし、このことをこの母親に言ったならば、「私はちゃんと子どもに言い聞かせています」と反論されるだろう。言葉によるコミュニケーションが成立するのは、もうちょっと年齢が経たないと無理ではないかと思うのだが、最近の赤ん坊は進んでいて、母親の言葉や視線をノンバーバルなものとしてコミュニケーションできる力があるのかもしれない。
 しかし、触ってもらえない赤ん坊は不幸である。泣くという自己主張を永遠と続けなければならないのだから。泣いても泣いても、コミュニケーションしたい相手が皮膚感覚として現れないのだ。これがずっと続いたとしたら、泣くこともあきらめ、皮膚感覚でのコミュニケーションもあきらめてしまうのだろうか。
 今日の、この母親は、いったい何の本を読んでいたのだろう。彼女の心理状態も少々知りたくなってきた。泣いている赤ん坊に触ることが出来ない母親だとしたら、彼女も不幸である。
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by namuko06 | 2006-07-09 22:12 | 日記
結婚=出産 は正しいか?
優良結婚相談業者を認証 政府、少子化対策で検討 [ 07月02日 16時33分 ] 共同通信
 政府は、新たな少子化対策の一環として、サラリーマンやOLが民間の結婚相談業者や結婚情報サービス業者を安心して利用できるよう、第三者機関が優良業者を「認証」する仕組みの導入を検討している。
 若者らの出会いの機会を増やし、結婚の増加と出生率アップにつなげるのが狙い。ただ、結婚相談業者と利用者の間で、契約をめぐるトラブルも多いとされ、認証制度の導入・定着に向け克服しなければならない課題も多い。また、少子化に歯止めをかけるためには、男女の働き方の見直しなど、結婚や子育てをしやすい環境の整備が先決問題との指摘もある。

 少子化対策として、「異性同士の出会い増加→結婚増加→出生率アップ」という図式には、どうもピンと来ない。出生率(合計特殊出生率)は、15〜49歳にわたって、年齢別出生率を合計した数字であるが、2004年には1.29となった。また、女性の出生年と年齢を対比して、出生率を求めてみると、出生年が最近になるほど、晩産化しています。これはなるほどと思いますが、私の周囲を見てみると、子どものいる家庭といない夫婦が明確に別れているように感じる。とくに子どもが2人以上いる家庭というのは、公務員や教員に多いようだ。一方子どもが1人、またはいない家庭は、民間企業の共働き夫婦に多いように思える。これはあくまでも私の感覚なので、不愉快に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、教員を含めた公務員というのは、比較的産休、育休に対して雇用側が柔軟な対応をしてくれる。産休をとった女性教諭が、学校に戻ってきたかと思ったら数ヶ月後、また産休に入る、ということも頻繁に見聞きする。男性教諭が育休をとるのも民間にくらべて簡単なようだ。これはさらに、産休・育休後の職場復帰も柔軟に行うことができるからであろう。
 このように考えてみると1.29の内訳は、公務員(を夫に持つまたは自身も公務員)の出生率はある程度高いが、民間企業に勤める夫を持つ主婦や、自身が民間企業に勤める女性の出生率はかなり大きく下がっているのではないだろうか。
 それでは、なぜ後者の出生率が下がっているのか、このあたりをきちんと把握しないと、単に出会いの場を提供するだけでは、結婚→出産、といったスキームにはならないと思う。
 おそらく、若い女性達の結婚、出産に対する価値観、希望といったものが大きくかわってきているからではないだろうか。以前テレビで新人OLの結婚願望をインタビューで聞いていたが、「家事は夫と分担して、月に一度は外食、週に一度はフィットネスクラブでシェイプアップして、友人達とランチをして、子どもは一人ぐらい」といったコメントがあった。この20代中盤の女性が結婚する相手はおそらく20代後半から30代前半とすると、この年齢の男性は、残業はもとより、土日の出勤、出張は当たり前の仕事中心である。したがって、家事など分断できるはずもなく、外食の予定も仕事ですっぽかされ、といった状況であろう。これでは、子どもが生まれるはずもなく、そのまえに、理想と現実のギャップを目の前にして、離婚という状況が浮かんでくるはずだ。また、男性も結婚前はプレゼントなどで、彼女の気持ちを惹いておきながら、いざ家庭を持つと、妻には自分の帰りを待っていて欲しいという甘えから専業主婦にしてしまうため、自身のサラリーで二人分をまかなうことになり、昨今の賃金体系ではかなり厳しい。自然と残業による割り増し金が必要となってくる。
 こういったストーリーはあくまでも想像であるが、こういった少子化以前の原因となる若者の結婚に対する意識と現実の分析をきちんと、公表して欲しい。国立社会保障・人口問題研究所等が公表しているデータをみていても、このあたりのこまかな肉付けが薄い。敢えていうならば、学歴や住居圏、勤務形態といったファクターが抜け落ちているからではないだろうか。実社会を問題にしているのならば、政府には労働形態、生活形態といった視点からも少子化問題を論じてもらいたいものだ。
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by namuko06 | 2006-07-02 22:00 | ニュース