ふと思いついたこと
by namuko06
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犯罪現場を見ない教師達
「同学年の生徒が金要求」 埼玉の中3男子自殺

相談員に相談した生徒に対して、学年主任と教諭の指導コメントが、まったく被害生徒の身になっていないのがよくわかる。
「金銭を要求されたら親や先生に必ず言いなさい。渡したら駄目だ」

もう少し、細かな話が交わされたのだろうが、この面談が8日。11日には被害生徒は母親に恐喝されていることを伝えている。この3日間に教師達は加害者生徒に接触していないようだ。加害者生徒が怖くても、その加害者の親に連絡するなどの方法で、恐喝行為を止めさせる機会はいくらでもあっただろう。もしかすると、親に連絡したために加害者の生徒が怒り、被害生徒をさらに追い詰めた自殺した、もしくは殺した可能性も考えられる。

被害に遭っている生徒にいくら「がんばれ」と言っても、何も改善されない。加害者の行為を止めることがまず最初にしなければならないことだ。喧嘩の仲裁と同じ。強いヤツをまず止める。そして離す。こんな単純なことがなぜ教師達はできなかったのか。加害者の生徒を守るために、画策していたのか。そういうふうに邪推されてもしかたがないだろう。

それから、8日以降の教師達の被害生徒へのフォロー、ケアはどのように行われていたのだろうか? このあたりも今後のために、学校側は報告して欲しい。恐喝未遂として警察が動いても不思議ではない事件だと思う。
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by namuko06 | 2006-11-13 12:20 | ニュース
モラルジレンマ授業
ピアジェとコールバーグが提唱した道徳性の認知発達段階理論に基づくモラルジレンマ授業の様子をテレビ(フジ「とくダネ!」)でやっていた。小学校3年生の道徳の授業で「門番のマルコ」を題材に、対立する2つの道徳的価値観を互いのディスカッションを通じて、認知不均衡状態から脱却して、自分だけでなく相手の価値観を理解することで、尊重するようになる。テレビでの授業の様子は、まさにコールバーグの0段階の自己希求志向から4段階の社会システムの道徳性の直前まで、子どもたちが認知発達したことを示していた(全部で6段階ある)。ステージで言えば前慣習的水準から慣習的水準へと道徳的価値観が向上したことになる。僕の勤める会社でもヒューマンスキル向上のための教育として、このようなケースメソッドを取り入れた手法を多く取り入れている。問題解決やコミュニケーション、リーダーシップ能力の開発に使っている。

道徳の教育は大変難しいが、小学生の子どもだからこそ、物語の世界へ没頭し、ジレンマをあたかも自分のものとして考えることが出来るのだろう。これを実験で終わらせるだけでなく、全国で広まって欲しいとも思った。

K.ローレンツは、人間が本質的に持つ攻撃性は道徳という栓では、完全に塞ぐことは出来ないと言ってはいるが、それをわかった上で、効果的な教育を行うことで、少なくとも壊れにくい栓を作ることは可能である。モラルジレンマ授業が、いじめ問題の根本要因のひとつである相手を尊重するという道徳観を育むのではないだろうか。
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by namuko06 | 2006-11-08 10:23 | 教育/子育て
攻撃性を解き放したのはなにか
<いじめ調査>やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識

この記事の中で、
「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」(公立小6年男子)

という感想が気になる。少数とはいっても、このような思いを抱いている子どもがいることに悲しい。
 まず、「いじめる行為」がその人の「個性」だと考えている、または思いこんでいるところが、この子どもの心の深い悩みを感じる。本来「個性」とは、個人と個人とを結びつけるための自分、もしくは相手を理解するための客観的に記述された性質のことである。したがって、それぞれの「個」がそれぞれの相手の中で、理解されるために必要な枠組みである。そこから相互理解が進んでいく、「個性」とはそういった文脈で使われなければならない。
 また、「個性」とはK.ローレンツの言葉を借りれば、『個の結びつきは、攻撃性を抑制し和平をもたらす行動の仕組みのひとつ』をなすための重要な要素なのだ。
 「いじめ」は人間の「攻撃性」がなんらかの形をもって発露したものであろう。その理由はローレンツの「攻撃」に詳しい。
・商業上の競争は、今日すくなくとも石器時代の人間の種族間での闘争が人間の種内攻撃性を高めたのと同じように、先ほどのもろもろの衝動を恐ろしいまでに育て上げてゆく作用がある
・せまいところにつめこまれていること(crowding)の結果、攻撃行動を起こしやすい状態になる
・熱狂している人間を支配している物は、(中略)ある種内攻撃性なのであって、しかもこれが太古そのままの、およそ昇華などされていない社会的防衛反応のかたちをとってあらわれるのだ

 すなわち、多くの動物と同じように人間にも種内攻撃性が埋め込まれており、それが社会的競争の場に晒されることにより、さらには教室だけでなく地域、社会など「狭い(と感じられる)空間に押し込められて、攻撃行動を起こしやすくなる。そして、その攻撃行動は攻撃性を発露したいと欲求している人間を集め、熱狂状態となる。この熱狂が本来、種内攻撃性を封印すべき道徳や、タブー、倫理観をどこかに押しやるだけのパワーとなっているのだ。

 ほとんどの動物の持つ種内攻撃は、それ自体は”悪”ではなく、種をいじする働きをもっている。しかし一方で攻撃を無害化し、封じ込める行動様式を持っている。意図された物かどうかはわからないが、それが自然なのだ。
 こういった攻撃性を封じ込めるために人間はなにをすべきか。ローレンツは以下のようにいっている。
道徳的に動機付けられ攻撃禁止令を布くことだが、これによって攻撃性が征服されることはない。これらはともに、火にかけた窯の中で圧力が高まってくるのを、圧力便のところに閉鎖バネをもっと硬くねじ込むことによって防ごうとするのと同じような結構な戦略であろう。(中略)いちばん確かな成果を期待できるのは、攻撃欲を代償となる目的に向かって消散させることによってカタルシスを実現することだ。

 ローレンツの「攻撃」には、丁寧な観察から得られた考察を、示唆に富んだ語り口で、私たちに人間の知恵を再教育してくれる。第14章「希望の糸」は、万人への希望の書となるであろう。小学生には難しい内容ではあるが、中学生、高校生は是非とも読んでもらいたい本である。
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by namuko06 | 2006-11-07 13:28 | ニュース
死に急ぐべからず
痛ましいとしか思えない。教育者の自殺に対して非難あり、そして同情あり。私自身は正直言ってどちらの立場とも明確にできない。亡くなった校長は自宅にきちんとした遺書を残したことから、覚悟の自死であったことは間違いない。
 もしも、自分が彼の立場だったらと思うと、青雲の志を抱いて入学してきた子どもたちの将来に傷をつけるような事態を引き起こした責任を何らかの形でとらなければならないと考えるだろう。その責任の取り方に、すべての対策を終えた後に、教育者を辞めるという選択があっただろう。しかし、彼はそれをしなかった。となれば自死することによって責任を明確にするという思いがあったのはないだろうか。校長を辞任した後でのうのうと生きても、子どもたちに残った傷は一生消えることもなく、信頼を無くした自分には癒すことも出来ない。ならば、命をもってしか償えない責任があることを示すことが教育者としての役割だと、私ならば考えるだろう。だからこそ、命は粗末にあつかうのではなく、命をかけて謝罪するのが人間としての道であると教えたかったのはないだろうか。ましてや教育者として、他人の子どもを預かり、人間を育む立場の者は、命がけの仕事であることをも伝えたかったのではないだろうか。このタイミングで死んだことが、なによりも雄弁に物語っているように思える。
 だが、もう一方の私は、死に急ぐべきではないとも思っている。このような問題を二度と出さないように自分が今後なすべきことを実践して見せていくことも、傷ついた子どもたちを癒し、謝罪し続ける方法ではなかったかと思うのだ。
 まだまだ、考えなければならない、重く深い事実だ。
 ご冥福をお祈りしております。

<高校長自殺>生徒に経緯説明…履修不足発覚の茨城・佐竹高 [ 10月31日 11時42分 ]毎日新聞

 履修単位不足が発覚した茨城県立佐竹高校(同県常陸太田市)の校長、高久裕一郎さん(58)が自殺したことについて、同校は31日午前、体育館で全校集会を開き、約590人の生徒に経緯を説明した。
 冒頭、根本滋教頭が「校長が自ら命を絶つという痛ましい事故が起きてしまった」と報告し、全員で黙とう。自殺の原因について根本教頭は「(履修単位不足問題と)直接に関係があるかは分からない」としながらも、「(履修単位不足が発覚した翌日の)27日に、校長は生徒への説明やマスコミへの対応に追われ、お疲れの様子だった」と振り返った。
 出席した3年の女子生徒(17)は「補習授業はさほど苦にならない。(校長先生は)思い詰めてしまったのだろうか」と悼んだ。また、1年生の女子生徒を学校まで車で送ってきた母親(54)は「自殺は非常に残念。履修不足の対応に追われていただけにプレッシャーが大きかったのかもしれません。ただ、最後まで責任を持って対応して欲しかった」と沈痛な表情で話した。【原田啓之】

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by namuko06 | 2006-10-31 16:32 | ニュース
現場主義の崩壊
<履修不足>350回の補習も 不安渦巻く生徒たち

伊吹文科相の言い分
「卒業証書を出すまでの間に学習指導要領に決めた通りの授業は受けていただく。特別な配慮は難しい。みんなが決めたルールを守るところから社会の秩序は成り立っている」と述べた。さらに責任の所在について「所管をしている教育委員会そのものに責任があるんじゃないか」と言及した。


ある高校の事情、校長の言い分
盛岡市の私立盛岡中央高では、普通科特進コースの3年生51人の履修不足は10単位に上る。履修が必要なのは世界史B、家庭基礎、情報A、芸術の4科目。50分の補習を計350回受けなければ卒業できない。
 対応策について、3年生は補習やリポートなどで補充する予定だが、生徒の負担を軽減する措置を検討中という。富澤正一校長は「学習指導要領にのっとらなかったことは悪かったと思っている。しかし生徒のためを思って、進路目標を達成させるためにやったことだ」と強調する。未履修科目の授業時間には受験に必要な科目の授業をしていた。少なくとも97年ごろから行っていたという。


生徒の言い分
・「仕方ないと思う。はっきり言って私たちの責任でもないです」

・「補習は受験が落ち着いてからやるという話もあるけど、国公立の後期は長引く。大学に合格した人と落ちた人がまた集まって一緒に補習するのは嫌だ」

・「どこの学校でもやってたわけだし、大学入試制度が変わらない限りどうしようもない」

・「友達の中には負担に感じて泣いている子もいる。センター試験が終わった後に補習してほしい」


これまで、学校の中のことは「教育の現場」として聖域化していた。学校で起きる様々の事柄は「現場」の意見を尊重することが、教育を受ける生徒にとって大切なことだと誰もが信じていた。この「現場」を主張する学校が、「生徒のためを思って」教育指導要領を無視したのだ。結果として、不利益は生徒達に降りかかってきた。これは、学校の言う「現場」を重視した教育方針である「現場主義」が、実は様々の問題を覆い隠すための陽炎ではないかと邪推してしまう。それを裏付けるように校長の言葉は続く、「進路目標を達成させるためにやったことだ」と。教育の最終目的は進路目標の達成ではないことは明白だ。教育の結果、進路目標が設定でき、実現するために生徒達は努力するのだ。目標と目的を取り違えるような教育者が教育に携わっている限り、「現場主義」とはあきらかに目標達成の「成果主義」に他ならない。何と、荒廃した姿ではないか。ゲーテは『ファウスト』でこう書いている。
  『おれを絶望的なほど不安にしうるのは、抑制できない諸要素の無目的な力だ』
「現場主義」が「成果主義」に置き換わった瞬間に、様々な目標が無目的に設定されていく。それは受験対策という環境に適用とするごく自然な、本能的な認識過程である。これこそ無目的の本質である。人間としてのインテリジェンスを失い、計画性を失い、そして人間としての向上心を失った結果である。これこそ、K.ローレンツが『文明化した人間の八つの大罪』『人間性の解体』などで述べている、人間を破滅の危機にさらしているという技術主義的システム化における人間の姿ではないか。

 さて、現場の教育者が教育に燃えていた頃の「現場主義」から「成果主義」に勘違いしたのはなぜであろうか。様々な要素がある、文科省、教育委員会の方針や評価制度の変更、社会的な学歴偏重主義、ゆとり教育による生徒達の学力低下、教師への社会的信頼低下などなど。どれもこれも非人間的な要素だ。こういった要素が重なって、非可逆的な構造を生んでしまったと、私には思える。

「教育再生」というのが今度の安部総理の公約のひとつであるが、非人間的な教育から、人間的な教育を取り戻すことが、教育者にとっても、生徒達にとっても、教育を通して人間性を獲得し生き返ること、これが目的である。「教育再生」には目標はないのだ。この目的は数々のマイルストーンを通りながら、全員で道を開拓し、進んでいかなければならない。それは下り坂かも知れないし、上り坂かも知れない。しかし、目的を掲げて進むことこそ、一方通行で進行する技術主義的システムの非人間性の浸透を食い止める道である。心してかからなければならない。
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by namuko06 | 2006-10-28 21:06 | ニュース
公文書偽造では?
未履修生徒の救済策検討 首相が文科相に指示

このニュースのここが気になる。
文科省初等中等教育局は「(世界史などの履修に必要な)70時間の授業は、大学入試シーズンが一段落した後、3月末までに行う補習で十分対応可能」としている。

 大学入試の際に提出する履修通知書には、たとえば未履修の世界史は、履修したとするのであろうか? これはりっぱな公文書偽造ではないのか? 文科省は履修通知書の提出時期を含めて、救済方法を検討しなければならない。 違法行為が野放しになってしまう。
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by namuko06 | 2006-10-28 17:01 | ニュース
無責任な大人達
このケースもそうだが、福岡の三輪中学校校長も同じように、事故・事案が発生してから

 「できるだけのことはやった」
 「責任の範囲のことは、きちんと対応した」

と話す。責任を全うして、事故が起き、人が死ぬということは彼らにとって想定外の事象なのか?それとも、やるべきことをやって人が死ぬというリスクは、彼らの組織(システム)にとって織り込み済みなのか? 前者だとして、想定外、例外で人が死んだことは、彼らの責任範疇ではないのか? 後者だとしても、責任範疇だろう。

このような無責任な言葉は聞き飽きた。なんと無責任な大人が多いことか。子供達はこういった無責任さを今の社会から学んでいくのかと思うと、ぞっとするではないか。
<分べん中意識不明>18病院が受け入れ拒否…出産…死亡 [ 10月17日 03時07分 ] 毎日新聞

 奈良県大淀町立大淀病院で今年8月、分べん中に意識不明に陥った妊婦に対し、受け入れを打診された18病院が拒否し、妊婦は6時間後にようやく約60キロ離れた国立循環器病センター(大阪府吹田市)に収容されたことが分かった。脳内出血と帝王切開の手術をほぼ同時に受け男児を出産したが、妊婦は約1週間後に死亡した。遺族は「意識不明になってから長時間放置され、死亡につながった」と態勢の不備や病院の対応を批判。大淀病院側は「できるだけのことはやった」としている。

 妊婦は同県五条市に住んでいた高崎実香さん(32)。遺族や病院関係者によると、出産予定日を過ぎた妊娠41週の8月7日午前、大淀病院に入院した。8日午前0時ごろ、頭痛を訴えて約15分後に意識不明に陥った。

 産科担当医は急変から約1時間45分後、同県内で危険度の高い母子の治療や搬送先を照会する拠点の同県立医科大学付属病院(橿原市)に受け入れを打診したが、同病院は「母体治療のベッドが満床」と断った。

 その後、同病院産科当直医が午前2時半ごろ、もう一つの拠点施設である県立奈良病院(奈良市)に受け入れを要請。しかし奈良病院も新生児の集中治療病床の満床を理由に、応じなかった。

 医大病院は、当直医4人のうち2人が通常勤務をしながら大阪府を中心に電話で搬送先を探したがなかなか決まらず、午前4時半ごろになって19カ所目の国立循環器病センターに決まったという。高崎さんは約1時間かけて救急車で運ばれ、同センターに午前6時ごろ到着。同センターで脳内出血と診断され、緊急手術と帝王切開を実施、男児を出産した。高崎さんは同月16日に死亡した。

 大淀病院はこれまでに2度、高崎さんの遺族に状況を説明した。それによると、産科担当医は入院後に陣痛促進剤を投与。容体急変の後、妊娠中毒症の妊婦が分べん中にけいれんを起こす「子癇(しかん)発作」と判断し、けいれんを和らげる薬を投与した。この日当直の内科医が脳に異状が起きた疑いを指摘し、CT(コンピューター断層撮影)の必要性を主張したが、産科医は受け入れなかったという。

 緊急治療が必要な母子について、厚生労働省は来年度中に都道府県単位で総合周産期母子医療センターを指定するよう通知したが、奈良など8県が未整備で、母体の県外搬送が常態化している。

 大淀病院の原育史院長は「脳内出血の疑いも検討したが、もし出血が判明してもうちでは対応しようがなく、診断と治療を対応可能な病院に依頼して、受け入れ連絡を待っていた」と話した。

 一方、高崎さんの遺族は「大淀病院は、総合病院として脳外科を備えながら専門医に連絡すら取っていない。適切な処置ができていれば助かったはずだ」と話している。【林由紀子、青木絵美】

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by namuko06 | 2006-10-17 16:48 | ニュース
内部調査では明らかにはならない
<福岡いじめ自殺>教諭発言、一転因果関係認めず 校長会見 [ 10月16日 10時32分 ]毎日新聞

 福岡県筑前町の町立三輪中2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した問題で、合谷(ごうや)智校長が16日未明、記者会見し、男子生徒の1年時の担任教諭で、現在2年の学年主任(47)が、男子生徒に対するいじめ発言を繰り返し、それが発端になって生徒たちによるいじめが広がったことを認める一方、教諭の発言と自殺との直接の因果関係については「認められないと思う」と述べた。

 合谷校長は15日朝、自殺した男子生徒の家に赴き、遺族に対して「教諭のいじめ発言は自殺に結びついている」と説明していた。だが、16日未明の記者会見で、合谷校長は「遺族への説明時には冷静さを欠いてしまい、『因果関係がある』と説明してしまった。もう一度考え直すと情報が少なく、より多くの情報を集めて分析してみないと因果関係については分からない」と述べた。学年主任は15日、体調を崩したという。【倉岡一樹】

 ◇全生徒対象にアンケで「調べ直す」…生徒宅訪問の校長

 合谷校長は16日午前1時半すぎに教頭とともに自殺した男子生徒宅を訪問、両親と2時間近くにわたって面会した。父親によると、校長は全生徒を対象に教諭らによるいじめについてのアンケートを16日に無記名で実施することを伝え、「もう一度最初から調べ直します」と答えたという。

 校長らは面会後、報道陣の質問に一切答えず、無言で車に乗り込んだ。

 自宅玄関で取材に応じた父親は「(1年時の)担任が引き金となってその後の(生徒たちによる)いじめが続いたという説明を受けた。でも、私たちが思っているのはそうじゃない。(担任のいじめは生徒が)2年になってからも日常的に続いていた。納得できない」と語気を強めた。

 言っていることがなんども変わるというのは、管理責任者としての校長という立場からみても、最低な対応である。しかも、謝罪内容が変わるというのならば、もう一度遺族の前で、説明しなおして、承諾を得てから会見を開くべきであろう。そういった、大人の対応ができないところからして、校長失格であり、学校運営、教師の管理もずさんだったことをうかがい知ることが出来る。
 このような学校が存在していること自体、許されぬことであり、これを野放しにしている関係者は、事なかれ主義で過ごしてきたこれまでの対応に恥を知るべきだ。

 時代錯誤のようなことを言うが、役人と言えば昔は武士だった。不祥事が起きれば、切腹、家名断絶・一家離散、というのは常道だったはず。だからそれなりの覚悟で仕事に臨んでいたわけだが、現代の役人(教職員も役人)は、それだけの覚悟は皆無だ。もちろん、きちんと覚悟して職務に望んでいる人も多いが。
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by namuko06 | 2006-10-16 12:30 | ニュース
まちがえちゃった!
次女が2、3歳のころだったと思う。彼女が、はじめてふつうのベッド(子供用の2段ベッド)で寝たときのことだ。
 すでに長女も眠りに就き、次女も下段の自分のベッドで、眠っていた。私たち夫婦は子どもたちのベッドの横に布団を敷いて眠りにはいろうとしていたとき、スモールライトの薄暗い中で掛け布団を引きずる音がした後「ドテッ」と音がした。瞬間的に、私たち夫婦は、次女がベッドから落ちたことを悟って、ハッとした。そのとき
 「まちがえちゃった!」
と、次女の声。そしてベッドに、モコモコとはい上がる次女の姿。そして自分で掛け布団を首まで引きずりあげ、再びすやすやと寝息をたて始める。
 私たち夫婦は顔を見合わせて、笑いをこらえて、隣の部屋に起きだし、寝室のふすまを閉めたとたん、再び顔を見合わせて、大笑い。
 「なに、間違えたんだろうね? 夢でもみてたのかな?」
 「きっと、布団で寝ていると思ったんじゃない?」
 「ベッドが、永遠に続いているとでも思ったのかな?」
 「でも、落ちちゃった、じゃなくて、なんで、まちがえちゃった、なんだろうね。」
 「ふっしぎー???」

 翌朝、次女に
 「なに、まちがえちゃったの?」
と聞いたところ、
 「おふとんでねてるとおもったの」
とちゃんと答えるではないか。これに二度びっくり。
 「落ちたの覚えてるの?」
 「うん、いたかったもん」

この「まちがえちゃった」はこれっきりで、そのあとベッドからおちても、ひとりでモコモコと登って、落ちた掛け布団や毛布を引きずり揚げて、勝手に眠るという、わざを身につけた。しかし「ドテッ」という音に、ハッとさせられるのは、毎回の事だったが。
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by namuko06 | 2006-05-17 15:42 | 教育/子育て
水かけちゃえ!
 長女が幼稚園(保育園)に入った頃の話である。
 その幼稚園は、子どもを思いっきり遊ばせてくれるところで、毎日子どもが泥だらけになるというので有名である。子ども同士の遊びの中で、いろいろな葛藤や楽しみを通して、ルールを守ることや、新しい遊びを思いついたり、動物や草花を育て、食べることの重要さを自然と身につけていくということができそうな、幼稚園である。
 そこに長女が年中から入った。3歳ぐらいから入っている子どもはすでに幼稚園の主のようにしていて、果たしてそこにとけ込めるかと心配していた。数ヶ月後天気が良い日に、父兄参観日があり、少し早めにいってみたところ、目の前をパンツ一丁の子どもたちが奇声をあげながら、泥だらけになって走り回っている。よく見ると、全身びしょぬれの子どももいるではないか。思わず、自分の娘を探してみたが、いない。立ち止まっていると、木陰から、
 「だれ? だれのパパ?」
とかわいらしい声が聞こえた。そちらをふりむくと、髪の毛に泥がこびりついた、パンツ一丁の女の子。手には水が垂れ流れているホースをにぎって、顔中にっこり笑いながら、
 「だれのパパ?」
ともう一度聞いてくる。
 「ああ、ゆうのパパだよ」
と答えると、にこにこ顔が、さらにおおきく微笑むと、
 「ゆうのパパなの? やったぁ、水かけちゃえ〜!」
の言葉が終わる前に、持っていたホースからしぶきが私めがけて放水される。気がつくと、子どもたちが私のそばに群がっていて、おおはしゃぎ。
 「こらー、やめろー」
といっても、まったく止める気配はないが、なんとなく楽しい気分になってきた。
 突然、水が止まった。先生が来たからだ。みんなは「にげろ〜!」と蟻の子を散らすように、消えてしまった。
 「すみません、大丈夫ですか?」
と先生は聞いてくれたが、時すでに遅し、頭、背中はびしょぬれだった。
 「ええ、なんとか。でも楽しいですね。こんなに歓迎してもらって。」
と答えると、
 「ほんと、すみません。子どもたちは、お父さん方が来られるので、はしゃいでるんです。」
 見ず知らずの子どもに水を掛けられて、腹が立たないのはなぜだろう、こんな楽しい気持ちはどうしてだろう、と濡れた頭をハンカチで拭きながら考えたのだが、水を掛けてきた女の子は、私が誰かをまず、聞いた。そして娘の名前をだしたら、水を掛けてきた。ということは、彼女にとって娘のパパは水を掛けても良い対象である。すなわち、彼女は娘とは仲がよいか、あるいはとっても悪いか。しかし、彼女は水を掛けている間もとてもにこやかだった。
 などと、考えていたが、参観時間になって、教室に行ってみると、その女の子と娘は仲良く並んで座っていた。それで、仲の良い友達ができたんだ、とホッとしたのだった。
 その女の子もすでに中学生。水を掛けられて以来、家族ぐるみで長いこと一緒に遊んでいたのだが、住居が離れ、少し遠くなってしまった。先日久しぶりに会ったときにはすっかり大人びて、見違えてしまった。しかし、私を見る瞳は昔のまま。にっこり笑うその笑顔の中に、「水かけちゃえ〜!」の笑い声が今も聞こえてくるようだ。
 
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by namuko06 | 2006-05-16 11:57 | 教育/子育て