たまたま出席した葬儀で、観世音菩薩普門品偈(観音経)をきいた。これは法華経の第25章にある「観世音菩薩普門品」の中の韻文体で書かれた偈(げ)の部分である。僧侶の読経ではなかなか全文を聞いて理解するのは難しかったので、帰ってきて岩波文庫の「法華経」をひもといてみた。法華経は、生きていく上での様々な苦痛から逃れる術を、釈迦と弟子達の会話形式で説明したものであるが、とくに観音経は、観世音菩薩を登場させ、普門、すなわちどのような方向からでも苦しんでいる者を救う話である。観世音菩薩は名前の通り、困っているときに「かんのんさま〜」と叫べば、それを聞き入れて、救ってくれる菩薩であるが、助けるためには、姿形を変えて困っている者の前に現れて直接手助けをしてくれる、スーパーマンなのだ。
逆説的に言うならば、自分が困っているときに助けてくれた医者なり、友人などは、すべて観世音菩薩の慈悲によるもといえるだろう。
肉体的に死を迎えた者も、同様である。仏教的な此岸から彼岸までの道すがら様々な困難が待ち受けているに違いない霊達にも観世音菩薩は手をさしのべてくれる。
このように精神的な死による苦痛を救うために、観世音菩薩は自由自在な行為によって、その目的を果たしてくれるのだが、葬儀の最中に観音経の本質を理解することは、信仰心の薄い私にはなかなか難しかった。しかし、「助けて、かんのんさま〜」と願うだけで、観音様が変身した何者かが助けてくれる、というのは妙に説得力がある。
電車の中で急な腹痛に見舞われ、「苦しい助けて〜」と心の中で叫びながら、倒れたときに周囲の人々が助け起こしてくれたりすると、助かった安堵感とともに、助けてくれた人々に対して感謝の念が自然とわき起こってくる。
身内の死を受け入れられなくて、悲しくて心苦しんでいるときに、「誰か、助けてくれ」と願ったところ、友人達が代わる代わる家に来て、話を聞いてくれたり、慰めたりしてくれ、心がだんだんと安らかになっていく。
このようなことが、観音経の本質なのであろうと、理解した。
しかし、日々ニュースを見ていると、どうしてもっとはやくに誰かが救わなかったのか、と思うような犯罪、事件があまりにも多い。救われない理由がどこかにあったのだろうか。死を境界とした精神的な救済の思想は、まだまだ勉強する必要があるな。